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2013年2月14日 (木)

桐火桶ッ……?

   それで詩で全国大会出場を決めた虎美ですが、学校の友達にいろいろ言われたらしく。また疳の強い子だから、ただ社交辞令をもらってもいろいろとご不満があるらしく。

   「才能があるとか簡単に言う奴には腹が立つ! あの真夏に毎日学校に呼び出されて、あんたの詩は小難しくて何が言いたいのか解らないとかムチャクチャ言われまくったのを直して直して直した結果ワケ分かんないけど通っただけだから! あんたもあれを経験してみろって言いたいよ!」(大意)

   あ、それは大変でしたね。確かに毎日学校行ってたなあ。暑いのにご苦労さんとか思ってて、夏休みなのにお昼用意して行かなくてすんで助かってたんですが(ほんに手前のことしか考えてない親でごめんよ)。おかあさんも怒濤の削り&改稿が負担で負担で心が折れてオリジナルの小説書き止めちゃったからなあ。よく頑張った、偉いぞ。第1稿とはいえ、自分が選んで形にした表現がダメ出しを受けると自分の感性、ひいては存在が否定されたような気分になるもんです。キツイよ。

   「短歌だって俳句だって、先生にめっちゃ直されて、それもうあたしの作品じゃないからってぐらいいじられてるのに先生だけ気に入って大会に出されて、それが通ってもあんまり喜べない!」

   ああーそういえば、あるかも。

   わたくしも乏しい経験ながら申しますと、高校の文化祭で短歌のコンテストがあって、ノリでいくつか出したら、国語の先生の眼に留まって、たしか昼休みに放送がかかって呼び出されたんでした。
   「ええと……まいおと? さん」
   放送室にダッシュで飛び込んで、それは「まいね」と読むのだと言ってやりましたが、先生は、いい名前なんだから本名で出しなさいと平然と言ったんでした。いや、全校生徒450人、中学校からの内部進学も半分以上いてほとんど顔見知りの学校でそれはきついって。

   短歌や俳句はどうも師匠と弟子の距離が近くて、弟子が出した作品を、師匠がかなりダメ出しをして書き直させるというのは普通みたいです。その時も、これはいったいどういう状況のことを詠んでいるわけ? と説明させられ、それを説明するならこの語句はふさわしくない、それではこういう状況を想像させてしまう。それを表す雅語にはこういうのがあるから、それを使うといい、などとアドヴァイスされ、その場で文句をあれこれいじって、先生のOKが出るまで直して、ううーん、そういうことが言いたいんじゃないんだけど、とやや不満が残ったりしても、結局のところ先生の好みの形に落ち着いたところで放免、となった様な気がします。虎美もそんな目にあったのでしょうか。とりあえず、なにかの大会で入選したという俳句については「あたしはこれあんまり好きじゃないんだけど」とブチブチ言ってました。いや、今の今までほとんど作ったことなくても先生の感性の網に引っかかったんだからそこはなんか光る物があったんでしょうよ。

   ちなみに女子高生のまいちゃんが作った歌はこんな感じ。

   Before 夕風を額に受けて走り出す 
          流れる髪を染める赤い陽
                  ↓
   After   銀輪の校門抜けて軽やかに 
          流るゝ髪を染める赤い陽

   自転車通学で下校のときの景、と言ったら、それじゃー違うよ、このままだと部活でグラウンドでも走ってるんだと思われるよと言われたんでした。それで「銀輪」がトップに入りました。でも、本人は「軽やかに」がイヤだったりします。そこを軽やかたらしめる別のもので表現するべきでしょうが。ま、おかげで入賞して賞品の古語辞典ゲットしたからいいか。でもモヤモヤしてるから30年経っても覚えてる
   「髪が夕陽で赤く染まる」ってのは手つかずで残ってますね。無駄に浪漫的なのはこの頃から変わってない「まいねぶり」です。
   大塚女子大学同窓会報の短歌欄でも、ええーっ先生そんなふうに直しちゃうの? ってカンジになっていて、モヤモヤしたことは一度ならずあったりして。そこは本人にちゃんと聞いてよ、って身もだえしてた気がします。

   そんなカンジで、最初のイメィジからどんどん本当に主眼とする物にフォーカスを絞っていって、それを引き立たせるためにあれこれ試行錯誤ってのはええーっと、定家のパパさん、藤原俊成もたしか「桐の火鉢を抱え込んで悩む」云々語ったらしいんで、伝統のメソッドらしいですよ。詩ってそんな、天性の感性だけでぴぴっと作るモンじゃないみたいです。

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コメント

「髪が夕陽で赤く染まる」
のがこの句の肝なので、先生もそこはいじらなかったんでしょう?
そういう、「核となるイメージをとらえる」のはやはり天性のもので、それがなけりゃ始まらないもので、本人だけのものだと思うのね。
それをいじったり刈り込んだり、あれこれするのは多分修練が必要なもので、(いやもちろんとんでもない天才ははじめっからできあがっちゃってるカモだけどさ)先生の直しがあってもいい、というところなんじゃないかしら。
それをわきまえず、自分好みに作り替えてしまおう、という指導者も多いのかもしれないけど……

投稿: | 2013年2月18日 (月) 18時29分

すいません、上のコメントは私(とむ影)です

投稿: とむ影 | 2013年2月18日 (月) 18時33分

 ああ、はい、なるほど。
 「核となるイメージ」というのは納得いきます。シグリンの全国大会出場作の、向日葵が太陽の方を向いたっきりってのを、自分の方を向かないというふうに捉えたところ、やられたと思いました。
 活田光矢氏のおーいお茶俳句も、薔薇の花を鷲掴む、それでよりにもよって手相の運命線に傷を負ってしまうってのが、浪漫主義で人生誤った感をありありとさせていて、やっぱりやられた感がありましたもん。
 そういう人と違った感性、ひとの見ないところをひゃっと掬い上げるところが短詩型には必要なのかも知れません。

投稿: まいね | 2013年2月19日 (火) 00時41分

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